目標とはなんなのか?
目標までの道のりは険しいものなのか?
ある子と話している上で
こんな話を議論していました。
人生を直線で捉えるのか、ただの点の集合に過ぎないのか。
その子は話をするまえは線的な目線だったんですね。
別にそれが悪いとかいうのではありません。
ただ、ぼくは違う提案をしました。それは、
点で終わること
その日その日をやり尽くす
やりたいことをとことんやりきる。
何かゴールを先に決めてそこに向けて一直線に向かうのではなく、
いま目の前のことに対して全力を尽くす。
ぼくも昔はそうでした。
先に目標を決めてそれを達成するように、いらないと感じたものは捨て、いるものだけをする。
とても合理的だとおもいます。
でも、それは違うなと思ったんです。
じゃあ、今していることって本当はしたくないものなのか?
目標達成のために嫌々やりたいことをやるのか?
確かに、その子がいっていることは納得できました。
『目標をもってそこに突き進まないとけっきょくフラフラするだけで進歩しないじゃないか』
と。
でも、自分の『好き』ってのがあるんじゃないですか?
いま、自分が心動かされることってあるんじゃないでしょうか?
それが目標達成には一見必要ないからやらない、
それはどうなんでしょうか?ってことです。
心動かされたんでしょ?
やりたいと感じたんでしょ?
やべー、これやりてぇー、
っておもったんでしょ?
なら、それをしたらいいんです。
結局これまで生きてきて、自分が思い描いた通りになることなんてほぼありませんでした。
それはお前の実力がないだけだろう、と言われたらそこでおしまいになるのですが、世界は常に変化しています。
そんな世界で先を読むなんてできない。どうせまた変わるんだから。
もう1つ、目標を掲げることは悪いことではありませんが、それが歪んだものになってしまった時、その存在は自分の人生を苦しめることになります、
自分は特別でなければならない、みんなから尊敬させる人にならないといけない
そう思っている人がいたとしましょう。
その見方に立つと、そんな人は特別な人に、尊敬される人になって初めて人生がスタートします。
いままでの人生は苦しいものだった、これからが始まりだ、と。
高校野球で、優勝することだけが目標になっていたなら、優勝しないといままで野球をしてきた意味がない、ということになります。
365日中364日が苦しい日々だなんてあんまりじゃないですか。
今したことが絶対将来に生かされます。
それはどんな形でかは誰もわからない。
いままでは苦しい、辛い練習を繰り返して、ただ優勝するためだけにやってきた。
そこには「いま」という概念は存在しません。
常に今ない「くるかわからない未来」を相手にしています。
もう一度いいますが、目標を否定しているわけではありません。
しかし、それだけが大事なんだ、と考えてしまうとどうしても苦しくなってしまいます。
目標を達成した、そのほんの一瞬だけの喜びのためだけに長い期間をかけて辛い経験に耐える。
それはなんか哀しくないでしょうか?
もし、その目標に辿りつけなかった時には、価値ない自分、仮の自分、が出来上がってしまいます。
そうじゃない!!
そうじゃないんです。
ぼくも昔はこういった考えでした。
でもそれは自分を苦しめてしまう。目標を達成できない奴はダメな奴なんだと。
違うんです。
今、この瞬間を、この刹那を生きる
この考えが大切だと僕は思います。
ぼくだったなら、
人に何かを伝えたり
何かを教えたり
相手の力になりたい
相手の個性を伸ばしたい
そんな欲求であふれてます。
だから、片っ端からやりたいことをやっています。
塾の講師や
家庭教師、
中学校にいってサポートをしたり、
少年野球のコーチをしたり、
大学では授業以外に、英語を勉強したいという後輩と一緒に英語を勉強したりとか、
また、伝えるのが好きだから
このブログも書いています。
よく、聞かれるのは
『おまえ、なにをめざしてんの?』
という質問なんですが、ぼくもよくわかりません笑
だってそれがぼくのやりたいことだから。
そして、こういうと側から見れば「ただ、目標持たずに適当にやってるだけやん」と思われるかもしれません。
でも、好きなことってとことんやれませんか?
ことわざでもありますよね。
好きこそものの上手なれ
それがどこに向かうかはわかりません。
けれど、好きでとことん極めたそれは必ずあなたの武器になります。
逆説的なんです。
いまやりたいことを真剣にやることが知らぬ間にとんでもないところまで来ている。
目標って結局自分のやりたいことの延長線上のものでしょ?
じゃあいまやりたいことをしていてもいいんじゃないでしょうか。
そして、「いや、違う、やっぱりこれがいい」
って思ったなら路線を変更してそれをとことんやればいい。
だから、ぼくは直線的な捉え方をしません。
いま、心動かされてやりたいことを極めていたらいつの間にか、みんなが羨ましく思うところまで来ていた、
そんなんがいいですね。
すこし例をあげるなら、
もしあなたが先生になりたかったとします。その目標達成のためには
勉強しないといけない。
試験に受からないといけない。
試験に受からないといけないから、時間の確保をするために塾のバイトをやめる。
ボランティアで学校にいってたけど、そんなのしても教師になる試験には受からないから辞める。
それってどうでしょうか?
あなたがもし、教える、ことが好きなのだとしたら目標達成に必ずしも関係してなくても、
ボランティアで子供と触れ合ったり、
塾の講師をしたり、
近所のこと遊んでみたり、
小学校に訪問してみたり、
子供を相手にしたサークルや団体に入ってみたり、
そのほかいろいろやりたいことがでてくると思うんです。
それならとことんやればいい。
その経験がどこかで生かされるんですから。
また、あなたは旅行が好きだったとします。
でも、先生になるのに海外旅行なんて必要ないですよね?
ここで、線的な視点でとらえると
不必要となり、英語の先生になる以外は海外に行く必要なんてない!
って思うかもしれない。
でも、あなたはいってみたいんです。
なら、いったらいい。
その海外旅行で、日本語を教えている先生に出会って、
あ、海外で教えるのもおもしろいかも!
と思うかもしれない。
もしかしたら、そこでの経験を生徒に語ることで生徒が授業に食いついてくれるかもしれない。
わかんないんですよ。なにがどこで役に立つのか。
すぐに役に立つものはすぐ役に立たなくなり、一見役に立たないように見えるものが実は思いもよらぬところで役に立つんです。
それはいま目の前のやりたいことに集中して行動してきたからこそ言える言葉です。
最後に例をだすなら
ゲームが大好きだとします。
で、あなたはゲームが好きだからということでゲーム会社に入社します。
でもつまらない
たのしくない
やめたいと思った
なぜか?
それはその人が、ゲームに関係するものが好きなのではなく作ることが好きだったから。
むかしから何か新しいものを作るのが大好きだったんです。
でもゲームに関係していればなんでもいいんだと錯覚していたからこんな自体が起こった。
振り返ってみるといつも頭の中で考えていたのは、何かを作ることだったり新しいものを生み出すことだった。
本当はじぶんのやりたいことは
はっきりしていたのに、、、
みたいなことだってないことはありません。
線的な捉え方をするのではなく、
点、点、点、で考える。
点同士を別に結べなくてもいい。今ここを生きる。それが結局とんでもないところに行ける1つの方法だと思います。
やりたいなと思っているのに、
「僕の目標はこれだから、関係ないそれはやらない」と何でも切ってしまってはせっかくのチャンスも見逃してしまいます。
線でなくて点
今この瞬間を生きる
たった今死んだとしても、素晴らしい人生だった、と言えるような、そんな生き方を選びたい。
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