世の中には2通りの先生がいます。
一つは自分が最初からできたものを教える人と、できなかったものを克服してそれを教えるという人。
前者は先生とは呼べないでしょう。
教えているとは思えない。
後者は価値ある先生です。
中学、高校を思い出してください。
特に国語で、先生に質問しても曖昧な答えが返ってくるのが多かったんではないでしょうか。
「それはこうやねん」の一言で済まされる感じ。
あるいは英語で前置詞で、なんでここで「at」を使うの?と聞いても「それはそういうものだからそう覚えなさい」の一言で済まされる始末。
皆がよくいうのに「センス」というものがあります。
国語の先生は国語のセンスがあった。
英語の先生は英語のセンスがあった。
それやったらセンスで終わりになってしまうやん。
それじゃあ勉強する何の意味もないですよね。
ここで二つの用語を確認したいと思います。
形式知と暗黙知
形式知とは形にできる知識のこと。
数字や言葉、図で表すことができるものです。
暗黙知とは知っているけど形にできないもの。
例えば、さっき言ったような前置詞がどういうときに何を使うのかを分かるけれど、何故かはわからない状態。
自転車の漕ぎ方なんかもそうです。
いちいち体の動かし方を意識してやってないですよね?できるんだけどどうやっているのと聞かれて答えられない状態です。
先ほど2通りの先生を紹介しましたが、前者は暗黙知で終わっています。
だから正解は分かるんだけど、それが何故かは説明できない。感覚(センス)に頼るわけです。
後者は違います。後者は自分ができなかったものと向き合って暗黙知を形式知に変えた人です。
だからセンスがあると一般に言われる人はなんらかのルールに則ってるんですが、それを言葉で説明できないからセンスの一言で片付けられてしまう。
でもそんな人がそれを教えることはできません。
感覚でしているから。よく最高のプレーヤーが最高の指導者になるとは限らないというのはこういった理由からです。
でも、暗黙知を形式知に変えていった人はそれを教えることができます。言葉で表すことができるから。
現代文でなんでその答えになるのか、そこにはしっかりとした根拠があります。それを暗黙知だけでなく、形式知にまで持っていけるからこそそれを人に伝えることができます。
僕は英語がまったくできませんでしたが、人一倍英語について勉強しました。普通なら丸暗記で終わるところを、「なんでそうなるの?」という疑問を常に持って追求していました。だからこそセンスで終わらせることなくだれにでも英語を教えることができるわけです。(まだまだ未熟ですが笑)
「なんで楽器の前には the がつくの?」
「丁寧な言い方をするときと仮定法にはなんで過去形を使うの?」
「前置詞をどうやって使い分けるの?」
なんていう質問には全て言葉で説明できます。それは常に疑問を持ち続けたからであり、形式知にまで持って行ったからです。
さて、ここまできたら分かると思います。
自分が教えるべきものはなんなのか、を。
それは、自分が得意なものではなく、今までできなかったものを克服してできるようになったもの、です。
また英語の話になりますが、アメリカ人が英語を教えられるのか、というとそんなことはできません。あいつらは暗黙知の状態だからです。知っているけれど言葉にはできません。だから英語を教えてもらうのには最初はまったくできなくて、でも今は英語を使いこなすことができる状態まできた人が最適です。
同じように僕たちは日本語ができますが、日本語は教えられません。教えるためには勉強が必要です。
「私は」と「私が」の違いは?
「あそこにいく」と「あそこへいく」の違いは?
無意識に使っているけれど、説明はできないはずです。
帰国子女に英語を聞いても無駄です。
もともとスポーツができただけの人に運動を教えてもらえません。
感覚で問題を解いている人に質問してもなにも出てきません。
できなかったものと向き合って、克服し形式知化したものが本当に価値のあるものです。
一度じぶんについて考えてみてください。
自分が何を克服して、何を教えられるのか。
最後まで読んでいただいてありがとうございました。
リツイート、シェア大歓迎です!
コメントを残す