【映画ビリギャル】さやかちゃんの合否を分けた二種類の「愛」の形


地上波初登場でビリギャルが放送されていましたね。


ビリギャルだったさやかちゃんが
慶應義塾に合格するという話。



一見、受験生向けかな、と思ったのですが、
実際に見てみると違います。


これは完全に教育者のための映画です!笑




ということでこの映画で山ほど教育の
エッセンスが詰まっているのですが、

今回はその一部を話したいと思います。




ビリギャルが合格したのはなぜか?




もちろん坪田先生の教育者としての
技量がありますよね。



でも、ここではそれを一旦置いていて
「愛」の話をしたいと思います。



ビリギャルの合否を分けた
二種類の愛の形。




映画ではその二種類が対照的に
見事に描かれていました。




ビリギャルの父である徹は
息子に対して愛情を注いでいました。


それはそれは深い愛情です。



息子のためにお金を使って

バットを買ったり、
一緒に野球の練習をしたり、
試合に勝ったら景気付けにいいものを食べさせたり、、、





でも、その息子はある日爆発してしまいます。






一方でビリギャルの母はさやかちゃんに対して
なかなかお金を注げることはできないけれど
必死にやりくりして塾へと通わせます。



途中担任の先生に呼ばれて文句を言われたり
危うく娘を退学させられるところまで追い詰められたりもしました。



それでも、母は愛を注ぎ続けた。




この母と父の愛の違いはなんでしょうか?




条件付きの愛と無条件の愛




父の愛とは一言で言えば
条件付きの愛
でした。



野球でいいプレーをしたら褒めてやる
レギュラーをとったらいい息子だ
甲子園で活躍したらお前はすごい




そんな、条件付きの愛でした。



父と息子がすれ違ってしまったのは
この条件付きの愛が理由だったんですね。



逆に言えば、息子の存在自体
愛してやれなかったんです。



「野球ができない息子だったら愛さないぞ」、って。




じゃあ、母はどうだったでしょう。


さやかちゃんが、
小学生の時にいじめられた時も
タバコを吸ったのをばれた時も
担任の先生に呼ばれた時も



「この子はいい子なんです。
本当はいい子なんです。」


とただたださやかちゃんの
存在自体を愛していました。




もちろんタバコを吸うことはいけないし、
勉強をせずに授業中に遊んでいるのも良くはありません。




でも、だからといって
娘の価値が下がった、とは一つもおもっていない。



何をしようと、どんな娘であろうと
その存在自体、いきているだけでいい。


そんな愛情でいっぱいでした。




これが無条件の愛です。




さやかちゃんが合格したのは、もちろん坪田先生の
立派な指導のおかげでもあります。



でもここで伝えたいのは
無条件の愛の素晴らしさ、です。




別に勉強ができなくたっていい
スポーツができなくたっていい
友達が少なくたっていい



そんな外のもので娘の価値を測らない

その姿勢が結局相手を次の行動へと
進めさせることができます。





逆に、父みたいに条件付きの愛を注ぐと
期待に応えられないと絶望をし、
期待に永遠に応え続ける努力をしないといけません。


もう、そこには楽しみなんて、
自分の意思なんてどこにもない。



ただの父の想いの奴隷です。

期待の奴隷。




そうじゃない。
そんなんじゃない。



ただ、相手のゼロの状態を認める。
ゼロの状態の相手を愛してあげる。



生きているだけで、存在しているだけで
すでに素晴らしい人であるのだから。



そんなことをビリギャルの映画を通して
伝えてくれている気がしました。



今回の内容を踏まえてもう一度映画を
見ていただけると嬉しいですね。



ではこの辺で。



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